大正時代に入り、「三宅商店」は第一次世界大戦の特需景気の影響もあり、順調に製造販売の拡大が進み、中四国、九州地方へと拡大し足袋業界を代表する商店に成長していた。大正12年(1923)関東大震災には迅速に対応し被災していた人々には大変喜ばれた。これを機に販路は東京、新潟、東北方面へと拡大していく。大正13年(1924)個人商店から株式会社組織へ改め「帝国足袋株式会社」を設立した。
時代は大正から昭和へと移り服装は洋装化の方向へと流れて始めていく。
洋服の普及とともに足袋も靴下へと取って代わっていく。帝国足袋は業態を見直す必要を迫られていた。新機軸として着目したのは学生服であった。昭和に入り小学生・中学生ともに和服姿が激減していた。昭和5年(1930)木綿布を使用した小倉と霜降りの小学生学生服の製造販売に踏み切った。足袋から学生服への事業拡大だが、長年の足袋製造で培われていた裁断と縫製の技術は学生服製造にも応用され、消費者から「堅牢な縫い付け」と高い評価を高める。
学生服の製造販売を機に主商標を「キラク」から「アサヒトンボ」の商標に変更し「アサヒトンボ学生服」「アサヒトンボ足袋」で展開を始める。しかし昭和6年(1931)満州事変以後、戦線の拡大とともに日本は戦時色一色に塗りつぶされ帝国足袋も軍需品の製造の命を受け軍服の製造をすることになる。昭和19年(1944)には帝国足袋株式会社は帝国興業株式会社と社名変更。 青春の象徴ともいえる学生服が軍服に取って変わられた大変つらい時代であった。
15年にも及ぶ戦争の時代が終結。戦後復興期、原材料不足ではあったが当時国民の間でもっとも渇望されていた足袋、学生服、作業服などの衣料品増産をいち早く推進した。昭和24(1949)には帝国紡績株式会社を設立一貫生産も目指した。戦後も全国の代理店網は健在で連携強化に努めた。この時代の深い信頼関係の上に築き上げられたパートナーシップ抜きにして、現事業基盤の確立とその発展を語ることはできない。