現在ブルマーと言えば、ぴったりブルマーと言われている伸縮性のあるニット生地のブルマーだと思います。それ以前は、ちょうちんブルマーといわれ、織物性でシルエットがちょうちん型をしたものでした。
ブルマーが世間の耳目を集めるようになったきっかけは、昭和39年(1964年)、東京オリンピックから正式種目に取り上げられた女子バレーボールだと言われています。野球や相撲以外はテレビで放映されることの少なかった時代だったので、日本チームが金メダルを獲得したバレーボールは注目度が高く、実は、オリンピックに出場した日本の女子アスリートで、ブルマー姿は、唯一バレーボール選手だけでした。その時、日本選手はややぴったりのブルマー姿でしたが、海外、特に日本と対戦したソビエトやポーランドの選手たちは、赤い色のぴったりブルマーで、日本選手との違いが良くわかりました。
国民の目には、日本選手の活躍と共に外国選手のかっこいいブルマー姿が焼きつき、その後、体育着を作るメーカーも、合繊メーカーと共同戦線を張って、合繊ニットのぴったりブルマーを販売するようになったので、急速に広がりました。さらに、生理用ナプキンなどの技術革新があったので、ぴったりブルマーを穿くことが可能になったことも重要な因子です。
また東京オリンピックの翌年、イギリスのマリークァントがミニスカートを発表し、世界中でミニスカートブームが起こります。昭和45年(1970年)には大阪万博があり、パビリオンのコンパニオンはほとんどミニスカート、JALのフライトアテンダントや、バスガイドさん、銀行のスカートも短くなり、脚を露出するのに抵抗がなくなりました。ブルマーは、そんな背景から体育着の定番としてポピュラーになったのです。
そのような経緯を経てブルマーは、普及していきましたが、それらは、織物で作られ、比較的長く大きいシルエット、腰ベルト部は紐で結ぶ仕様で、ほとんどが濃色でした。これは、日本の古来からある袴の後継と見られていたところから来ています。
戦後、ゴムが貴重品でなくなった頃から、ウエストにゴムが入ったブルマーが登場し、短パンとともに体育着の定番となっていきましたが、体育着そのものがまだ新しいアイテムでしたから、普及率は低かったようです。
なお、体育着として見た場合、短パンと比べブルマーは、すそからパンツが見えるのを気にしなくて良い、短パンが白主体であり、女性の生理時に困ることがあるなどから、次第にブルマーが優勢になっていきました。
1990年代以前は、ほとんどの学校がブルマーを体育着として採用していました。ピーク時は、昭和45年から50年代半ばと思われるので、おおよそ300万人、つまり、300万枚ほどが年間売られていたと考えられます。
ブルマーに代わって登場し、現在の体育着で主流になっているのが、ハーフパンツです。この背景を探ってみました。
1993年5月15日に、Jリーグが産声をあげました。その5年ほど前から、サッカー人気が高まってきて、Jリーグが始まる2年ほど前から、選手のユニフォームが話題になっていました。それがハーフパンツや、襟のないシャツ、ロングダウンコートなどでした。ハーフパンツが主流になる間のつなぎ商品としては、ショートパンツ、ボクサーショーツタイプ(いずれもニットではなく布帛)がありました。結局、それまでのジャージ素材による長そで、長パンツに加えて、ハーフパンツとTシャツの軽快なスタイルが体育着の主役になっていきました。
19世紀欧米では、女性は、レディファーストの美名の下にその権利を制限され、男性の従属的な立場でした。服装では、男性はフロックコートに帽子、女性はきつく腰を締め付けたアワーグラスライン(砂時計のように中央がくびれたシルエット)が一般的で、雨が降ると、片手に雨傘、片手でスカートのすそをつまみ歩かねばならないような、不自由なスタイルでした。
そのような中、女性の権利拡大を主張した勇敢な女性たちがいました。1850年代の女権拡張論者 Mrs, Amelia Jenks Bloomer(アメリア J ブルマー)もその1人で、女性の権利拡大には、まず社会で働き、認められることだ、そのためには社会で働くにふさわしい見かけと衣服が重要だと考えていました。つまり、家庭婦人や社交界の花のようなスタイルではなく、男性社会の中で働く職業婦人のスタイルを模索していたのです。そこで、みずからがお手本となるよう、知り合いの女性が考案した、すそを絞ったズボンの上に膝丈のスカートを重ねた服装で、講演活動をしました。実は、このスタイルが、『ブルマー』の原型で、当時、このようなアイテムの名称がなく、『ブルマー女史の着ている服装』という意味で、ブルマーあるいはブルマーズと呼ばれ、名称は定着しましたが、当時の服装としては、一般化しませんでした。
当時女性が、股付き(ズボンのこと)の衣服を着ることなど、考えられなかったのですが、時代を経て、20世紀に入り、自転車の発明、テニスや乗馬が普及するにつれ、スポーツするための服装としてようやく日の目を見たのです。
セーラー服型上着の下にブルマーを着用するようになったのは、日本の女子体操教育の母といわれる東京女子高等師範学校教授 井口阿くり(いのくちあくり)が、導入してからです。女子体操教育研究の目的で、欧米留学した井口は、ボストンの学校で、体育着として着用されているブルマーに着目し、同様のアイテムを購入し、持ち帰りました。
日本女性の体格が欧米と比べ極端に劣ることに危惧を抱いていた政府は、明治36年(1903年)教育懇談会を設け、井口に講演させました。 井口は、米国で買ってきたセーラー服型ブルマーとスカートを引き合いに出し、洋装の利便性と、当時短袴と呼んでいたその短いスカートやブルマーが、機能的で姿勢もよくなると強調。 その後、いくつかの学校が採用する運びになりました。