聖徳太子は西暦603年、官吏の位を冠位十二階と呼ばれる冠と服の色や形で区分して体系化し、日本初の制服制度を制定。また教育にも高い関心を示しました。その後7世紀半ばには、天智天皇が当時の先進国、唐(中国)に範を取った初めての官立学校庠序(しょうじょ)を作り、また701年の大宝律令では学制が定められ、官吏養成の学校としての大学寮一校と、専門技術者を養成する典薬寮、陰陽寮、雅楽寮などが作られました。一方、当時の有力な氏族は、独自に寄宿舎兼用の教育研究施設を競って作り、一族の子弟を学ばせ、それとわかる服装をさせていました。
朝服(復元品)
当時の有力氏族の子弟の服装は、官吏が公の時に着る『朝服』に準じたもので、麻素材だった。この当時の服装は、朝鮮文化の影響が濃く見られる。
約390年に及ぶ平安時代は、雅やかな王朝文化が絢爛と咲き誇りました。政治は比較的安定し、和歌、日記、物語文学、絵巻物などが隆盛を極めた時代でもあります。西暦894年に遣唐使が廃止されると日本独自の国風文化が生まれ、服装も自国の気候風土にあった、ゆったりした和風へと変化しました。教育制度では、官職の世襲化が進み、公的教育機関であった大学寮の教師も次第に特定氏族の世襲となり、その世襲を維持するため、一族や自分の子弟のために私塾や自宅で教える、いわゆる家学化が進みました。身分の世襲制が長く続いた日本では、すでにこの当時、身分ごとに歴然とした容姿の違いがあり、巷の庶民と公家や有力氏族では、大きな差がありました。
公家子弟(復元品)
公家が文化をリードしていた時代の子弟の服装。少年はみずらと呼ばれる左右分けの髪型のため、冠をかぶらず、朝服が和様的に変化した、装飾性の高い束帯(そくたい)を着用した。また、後ろ身頃の裾は階級によって差があり、長いほど身分が高いとされた。
鎌倉から室町時代には、貴族の間で古典研究や有職故実などの伝統的な学問が継承される一方、京都の衰退につれて、仏教寺院や学識僧が学問の担い手として台頭してきました。中でも鎌倉五山を中心とする五山文学が有名です。貴族に代わって政治の主導権を握るようになった武士層も、子弟教育の必要上、徐々に学問や教育に関心を深め、学校や研究施設の設立に取り組むようになりました。北条実時が横浜・金沢称名寺に金沢文庫を設け、多くの文書を収集したり、室町時代に入ると上杉憲実が日本最古の大学と称される足利学校を開き学問の向上に努めました。こうした学校では、僧、武士が学生の中心で、それぞれの身分を示す服装で学んでいました。