トンボの祖である三宅熊五郎は万延元年(1860)に生まれた。母方の実家である藤森家は足袋の製造販売を営んでおり、熊五郎はここでそのノウハウを習得。日本が近代化へ一歩を踏み出した明治維新からまだ世情が混沌としていた16歳になった明治9年(1876)自宅にて独立、足袋の製造販売を行う「三宅商店」を起業した。
創業当時の足袋製造は手作業で行われていた。原布に糊を施し、これを石で作った台の上にのせ、木槌でたたいて艶出しをする。次に艶出しされた布をホウの木の裁ち台にのせ、ノミを使って裁断する。裁断された布を手縫いで仕上げる。このように全工程が手作業で行われていたため、一人が一日三足を縫い上げるのが限界で、「三宅商店」のスタートは家内工業の域を出るものではなかった。
日本の軽工業の機械化の波はミシンの導入という形で訪れる。 明治26年手回しミシンが輸入され三宅商店の縫製はついに手縫いから機械縫製へと移行した。 ミシン導入を機に作業効率は飛躍的に向上し、家内制手工業から機械工業化への第一歩を踏みだした。しかし足袋という日本独特の商品の縫製は輸入ミシンの適性に合わない工程も多々あり、熟練工の技術は絶対に必要なものであった。熟練工を数多く育てたことが「三宅商店」の足袋の品質を優れたものとし、消費者から高い評価を得ていた。
明治41年(1908)、創業者三宅熊五郎が他界。次男三宅保正がその家業を継承した。足袋が大量生産体制になると、当時の営業エリア内では需要に限界が出てきた。他の足袋との差別化するために明治43(1910)年「キラクたび」の商標登録を行い品質優良ブランドを効果的に訴求した。大正時代に入ると大量生産された製品を計画的に販売するための販路拡大の競争が熾烈を極め、「キラクたび」の宣伝活動が大々的にスタートする。